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―― 内田 樹「疲れすぎて眠れぬ夜のために」―― 5/9
 デュルケームは社会学の古典的名著である『自殺論』の中で、自殺の多い社会と少ない社会を比較してこんなことを言っています。
 北の国は自殺者が多く、南の国は少ない。自殺率と平均気温は関係があるのです(人間って、そういう点ではけっこう単純な生き物なのです)。
 宗教も関係します。プロテスタントは自殺が多いが、カトリックは少ない。神さまと向かい合って対話して自分の内面の信仰の真実さを問うような、そういう信仰のあり方は人間を孤独にします。「おそれとおののき」の中で神と向き合うというようなスタンスは相当に精神の強い人の場合でないと負荷が大きすぎます。カトリックのように、どんな悪事を働いても司祭に告解すれば罪は許されるというような考え方だと、信者は心的な負担を司祭に「預けて」心安らぐことができます(これはぼくが言っているのではありません。デュルケームがそう言っているのです)。
 デュルケームがもう一つ指摘したのは、大家族の家には自殺者が少ないということです。1人で暮らしている人が一番自殺しやすく、あと2人、3人、10人、20人と家族の構成員が増えるごとに自殺率は減少します。
# by suqule | 2012-05-21 03:30
―― 内田 樹「疲れすぎて眠れぬ夜のために」―― 4/9
 分かりやすいのは軍隊です。軍隊というところは指揮系統がはっきりしていて、上官への抗命はただちに軍法会議、悪くすると死刑という「逆らうことの許されない」場所です。こういう場所で、上官の前で「素顔」を出す部下はいません。上官の前に整列するときには仮面のような無表情になります。そして、何を命じられてもYes,sir.No excuse,sir.とそっけなく答えます。
 別にわざと愛想悪くしているわけではありません。相手は自分について生殺与奪の権力を持っている人間なんです。どういうふうに気が変わって、いきなり自分を傷つけたり罰したりするか分かりません。上官や教師や上司に対して「オレさー」みたいな感じで「素の自分」を出すことがどれくらい危険なことかを兵士たちは知っているからこそ、生き延びるために仮面をかぶるのです。兵士たちの上官に向ける礼儀正しさが、ディセンシーの原型です。それは「内面を見せない」ということです。
 子どもがまず「礼儀正しく」ということを教え込まれるのは、子どもからすると、世の中のほとんどの人間が「権力を持っている人間」だからです。「子どもである」というのは、まわりのほとんどすべての人間によって傷つけられる可能性があるということです。それくらいに「子どもである」というのはリスキーな状況なのです。だからこそ、子どもに向かって「礼儀正しくしなさい」と教えるのです。「君はすごく無力なんだから、まずきっちりディフェンスを固めておきなさいよ」と。
 経験的にご存知かと思いますが、人から「礼儀正しい応接をされる」と何となく「かわされる」という感じがします。「かわされる」あるいは「はずされる」「ずらされる」という感じです。そういう対応をされると、それ以上「突っ込めない」のです。こちらが攻撃的になろうとしても、なりきれない。
# by suqule | 2012-05-20 04:29
―― 内田 樹「疲れすぎて眠れぬ夜のために」―― 3/9
 志ん生の落語を聴きに来る人は、「前に聴いたのと同じの」を聴きに来るわけです。「まくら」が同じだと言って喜び、「オチ」が同じだと言って喜ぶ。そういうものですよね。現に、志ん生が「ま、ここはあたしに任しておいて下さい」というと会場はわっと湧きます。こういうのは林家三平の「身体だけは大事にして下さい」とか、植木等の「お呼びでない?」と一緒で、「同じことばだから」いい、というものなんですよ、ほんとに。
 桑田佳祐君の音楽なんかだって、ファンは毎度「違う音楽」を聴きたいんじゃないと思いますよ。『勝手にシンドバッド』と同じ曲想の音楽を何度も何度も聴きたいんですよ。
 音楽というのはそういう麻薬みたいなもので、同一のものが微妙な差異を含みつつ反復することのうちに快楽があるわけです。それこそがポピュラー音楽の王道なわけです。
 「新しい音楽性を求めてグループ解散」とか「同じものばかり求めるファンにはもうつきあっていられない」とかいう「クリエイティヴな」ミュージシャンがいますけれど、そういう人って、たいていその後人気なくなりますよね。
 同じものの反復服用が快感なんだ、ということがこういう「クリエイティヴ」な人には分かってないんじゃないかな。
# by suqule | 2012-05-18 03:28
―― 内田 樹「疲れすぎて眠れぬ夜のために」―― 2/9
 たとえば、ポール・ヴァレリーの有名な建築論に『エウパリノス』というものがあります。これは確か限定出版の豪華な建築写真集に添えられたエッセイだったと思います。版型も頁数もあらかじめ決まっていて、何頁のここに何行と、字数と段落がすべて指定されていた上で執筆依頼されたヴァレリーはその制約の中で、彼の最高傑作の一つを書き上げました。
 どういうわけか分かりませんが、「何でも好きなことを、好きなだけ書いていいよ」という無条件の場合よりも、制約を受けた方が創造意欲が湧くということは人間の場合にはあるのです。
 漱石の小説は、ほとんどすべて連載小説でした。新聞連載ですから、毎回読み切りでオチがないといけません。そういう制約の中で、『虞美人草』『それから』『こゝろ』などの傑作が生まれたわけです。
 形式は表現にとって「ネガティヴな条件」です。
 そして人間というのは、ほんとうに不思議なことですが、ネガティヴな条件づけをされているときに、それをどう突破するか創意工夫をこらすことを通じて例外的な創造性を発揮するものなのです。
# by suqule | 2012-05-16 04:25
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